昭和50年11月29日 朝の御理解



 御理解 第3節
 「天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺、氏子の家屋敷、みな神の地所、そのわけ知らず方角日柄ばかり見て無礼致し、前々の巡り合わせで難を受けおる、この度生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁昌いたすこと氏子ありての神、神ありての氏子上下立つようにいたす。」

 お道の信心を二代金光様は病気直しや災難除けの神ではない、心直しの神じゃ。そういう風に教えておられます。それでも心をなおさんでもお縋りをすればおかげを頂く、改まらなくても願いが叶う、もう心をなおさなければ改まらなければおかげはやらん、とまあ言われれば本気で改まるのですけれども、そういいながら改まらんでもおかげを下さる。そういうおかげの繰り返しでは、末々まで繁昌いたすこと。氏子ありての神神ありての氏子、上下立つように致すと云う様なおかげにはならない。
 天地の間に氏子居っておかげを知らず、私共が天地の親神様の御恩恵、そのお恵みをお恵みとまず知らなければいけない。そこから感謝の心も生まれる。感謝の心というのは、お願いには慌てて出て来るけれども、お礼に慌てて出て来る氏子が少ないと。感謝というのは、そういう一つの衝動的なもの。ああおかげ頂いたと、思うたら本当にお願いする時にも、平身低頭どうぞどうぞと言うてお願いしておるのであるから、本当におかげを頂いたというなら、いち早くお礼を申し上げる様な心が感謝の心です。
 有難いと思うとりますと言う様な、もうよかよか明日参ってお礼申し上げると言った様な、それは本当の感謝じゃない。感謝という本当の有り難いと思うのは、もういち早く例えばおかげを頂きました有難う御座いましたと、こうこうでと例えば電話で、でもお礼を申し上げる。その衝動が伴う程の有り難いというもんでなからなければ、おかげを知ったと言う事にはならない。
 私共が信心を段々分らして貰う、おかげをおかげと知る、同時に今般生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授けと、この辺の所までは大した事はないけれども、理解申して聞かせと、仰られるその理解、言うならば事の道理、信心の言わばことわけを聞かせて頂く聞かせて頂いて始めて、神様の心が分ったり又は、どうあらなければならないかと言う事を教えて頂くのですから。
 その教えて頂いた事が、守れずしてはおかげになりません。末々までも繁盛致す事と言った様なおかげにならない。氏子ありての神、神ありての氏子というふうに言われるけれども、そういう実感が伴うて参りません。私共が見当違いの事ばかりを言うたり、思うたりして、そういう見当違いの思いとか、見当違いの事をすると云う事は、そのまま天地に対する、無礼であると教えられるのです。そこでどう言う事が本当な事かと、例えば神仏の宮寺、氏子の家屋敷、皆神の地所、とそれが本当な事なのである。
 昨日の御理解の中にも皆さんに聞いて頂きました。信心をさせて頂くと云う事は、神様の思いを分って、その思いに応えると云う事、それを極端から極端な例を以てお話しを致しました。それこそ寒くても火鉢一つ使わない、神様の御ものだから大切にしなければならない、寒いなら自分の体を動かして、修行さして貰うたら自分の体は暖まる、というて神様の御物を御ものとして大事にする、だからそれ程しに神様の御物を大事にすると言う事ですから。神様が喜んで下さらない筈がない。
 それかというて寒ければ暖房、暑ければ冷房を入れて、いわゆる夏でも涼しい生活が出来る、本当に天地の親神様のおかげで、お恵みのおかげで、夏でもこんなに涼しい、冬でもこの様な暖かいおかげが頂けると喜べば、また神様が喜んで下さる。という極端から極端のそういう言うならば大きな神様なのです。その中途半端の所に居ってはおかげにならん、合楽の場合はそれが本当に冬でも暖かに、夏は涼しくとそこでなら問題は、本当におかげを頂いて有り難いという答えが出て来なければならない。
 又はこの寒いのに言わば手火鉢一つ置かんで言うならば辛抱する、それは唯の辛抱ではなくて、いきなり神様の御ものを使うては相済まんと言う所に、勿体ないからそれを使わない、どちらも神様のお心に適う証拠に、それでお徳を受け、それでおかげを受けておる。神様のおかげというものはその様に広い、だからその中途半端の所が一番詰らん、有り難いやら勿体ないやら分らない。
 昨日竹葉会でしたから、色々お話しをした後に、教職を頂いておる先生方ばかりが集まって、その朝の御理解を研修する、それも一緒にさして頂きました、それで先生方一人一人の、言わば今日の朝の御理解を頂いて、どこをどう頂いたかと言う事を皆んな発表して貰いました。中に私の方の直子が、それに答えてこう言う事を言っとりました。神様のおかげを頂いて、有り難いという信心。所謂合楽の信心は恐ろしいと言う事を言っとります。今朝の御理解を頂いて、恐ろしい事だと思うたとこう言うとります。
 それは矢張り信心が出来ずに、まあいうならば親の信心でおかげを頂いて、また親と同んなじ様な物を食べたり飲んだり、着せて貰っておると云う事がです恐ろしい、ああよかところに気が付いた、というて私申した事でした。だからその恐ろしいからです、恐ろしいから有り難いと言う事に変わって来る為に、一生懸命に信心しなければいけない。一生懸命の信心さして頂く所から、恐ろしいという気持ちがなくなって、唯有り難い、たったこれ位の信心しか出来んのに神様この様なおかげ下さってという。
 有り難いという心が生れて来る。恐ろしいと言うのは、本当に自分がこういう信心をせにゃいかん、これ位の事はさせて貰はにゃいかんと、思いなからそれが出来とらんから、恐ろしいのである。恐ろしいと言う事が分ったら、言わば薄氷の上を渡る様な思いで、神様が下さってある言わば過分のもの、勿体ない程しのいうなら食べ物でも、物でもそれを押し頂いて行く所に、有難いという心が涌いて来る。 
 だから有り難いのいわば、裏表が恐ろしいであり又は有り難いであります、ちゅうとはんぱの有り難いは大したもんじゃないです。だからおかげを頂いても、逸早くおかげを頂いて、お礼参拝でもさせて貰わねばおられない、いち早くあんなにお願いしとりましたら、この様なおかげ頂きました、その衝動それが有り難いのである。もう明日でよかよかというのはもう中途半端の有り難さである。それでは何時までたっても信心の有り難いというものが身につかぬ。
 それは神様の今申します様に、この神様は氏子天地の中に居っておかげを知らずと仰るが、甘木の行き方と合楽の行き方とは天地ほどに違う。きょくたんなまでに、もう全体反対ですけれども、どちらもおかげの頂けれる道、どちらもお徳の頂けれる道と言う様に広くて大きい、そういうおかげを先ず知らなければいけない、それには徹底したものを求めて行かねばならない。
 おかげが恐いと言う位の所からです、本当に神様は有り難いお方じゃけれども、その反面こわいお方と分らなければ信心が分らんと言われる様に、お互いが怖い恐ろしいというところに気だつかないなりに有り難い、というておるのは本当なもんじゃない。中途半端である。私はおかげを知らずと仰るのは、そういうおかげを知らないと言う風に今日は聞いて頂きたい。本当に枯れ葉、枯れ枝一本一枚でも仇やおろそかには出来ん、神様の御物として押し頂くその心、例えば甘木の先生の御信心ですけれども。
 そこに目の前にそういう例えばお粗末ご無礼な事があるとすると、もうそこには通り抜けられない位に厳しく御自身の信心の上にそれを実行なさって、いうなら勿体ないからというのは、まあ言葉を変えると。怖いからと言う事にも継ながると思うです。だから粗末にはされない。という程しに神様が、言うならば大事にする言うならば。その大事にする者のうえに限りなく御恵みを下さる筈です。かと言って自分の我慢、我欲じゃない、または我が儘ではない、神様が下さる一切のおかげをです。
 勿体なし有り難し、本当に有り難いとそれを押し頂いて、有り難いという心、その有り難いという心は、恐ろしいと有り難いのが裏表にある様な意味に於いての有り難しをもって、それを頂いて行く事によって、神様はいろいろいよいよ喜んで下さる神様。そういう私はおかげを知らなければならない。そういうおかげを分る為にです、成る程四神様が仰せられる様に、この方の信心は病気治しや、災難除けの神ではない、心なおしの神じゃと、それでも心なおさんでも、改まらんでも頂くおかげというのは。
 今日私が言うおかげを知らず、天地の間に於いておかげを知らずと、言われると同じ様なおかげであります。本当に自分が改まってみる。本当に自分が磨いてみる、本気で自分が改まってお縋りをして、頂くおかげであって始めて、神様のおかげを勿体なしと押し頂き、神様のおかげを有難しと押し頂く信心が生まれて来ます。天地の間、今日は甘木と合楽の信心を、天と地というふうに聞いて頂いた。私共の信心が有り難く頂いとってもです、それが本当の有り難しになっていない、勿体ないというておっても。
 本当の勿体ないになってない。それでは例えば初代がそういう信心をされておっても二代三代に成って来てです、真似方だけはする、そりゃ湯気でも勿体ない、風呂の湯気でも勿体ない、と言う様に先代は修行されたからというて、言う事になっとっても片一方では大きく抜けてしまうような信心になってくる、おかげを知らんから。おかげをしらんから本当のおかげがいわば互い違いになって来る。又そういう有り難しいわゆる衝動的な今私が申しますように、おかげを頂いて有り難しその有り難しがです。
 いち早くお礼にでも出ねばおられない、どうかしなければおられないその衝動がです、末々まで繁盛致す事氏子ありての神、神ありての氏子上下立つ様に致すと、教祖様が仰せられる、それこそ神様のままになられる事を、私共がその衝動的な心が起こって来るから、神様のお喜び頂ける信心が出来る。だから神様も又氏子が喜ぶ様な、おかげを下さる。上下立つ様な、言うならば信心は、そう言う所からしか生まれて来ないと思いますね。 
   どうぞ。